性産業大国の日本で「風俗を差別するな」にモヤモヤ こぼれ落ちる巻き込まれた女性たちの声〈dot.〉
2022/7/5

作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、性産業について。

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 コロナ禍で休業したデリヘル店が、持続化給付金などの対象外とされたのは「職業差別だ」と国を訴えていた裁判で、東京地裁が業者の訴えを退けた。訴えていたのはデリヘルを経営する女性だ。納税義務を果たし、真面目に営業してきたという。判決は、さぞかし悔しかっただろう。

 国が給付金の対象外としたのは、公共法人、政治団体、宗教団体と、性風俗関連特殊営業の業者だ。デリヘル以外にも、ソープランド、個室ビデオ店、アダルトグッズ販売店、ラブホテルなど、風営法の届け出が必要な業者が一律にくくられ、給付金対象から除外された。

「アダルトグッズ」を販売している私の会社も給付金の対象外だった。幸いなことにネットショップのためコロナ禍の影響は受けなかったが、もし申請しなければならない経済状況で給付金が却下されたとしたら……私もきっと訴えただろう。

 この国は気楽に「職業の貴賎」を突きつけてくるのである。私の例でいえば、アダルトグッズをネットで販売するためには「性風俗関連特殊営業」の届け出を出さなければならない。とはいえ、この届け出は、食品衛生責任者を置かなければ飲食店が開けないというような許可制の類いではなく、出したところで何の保障も権利も与えられない。むしろ届け出を出すことで社会的信用が失われることもある。例えば銀行は性風俗関連特殊営業の業者に融資はしないし、不動産屋にも敬遠される。部屋一つ借りるのにも、部屋の間取り図を全て警察に提出しなければならなく、そんな寛大な大家を見つけるのは至難の業だ。でも出さなければ仕事ができないし、でも出したら出したで………という負のループにはまり、「賤(いや)しい仕事はするな、やるなら覚悟しろ」と国から叱られているような気持ちになるのだ。

 とはいえ、である。今回の裁判で、原告のデリヘル業者の主張がそのまま通るべきだったのかどうか、私はすんなりと答えを出せていない。しっかり納税してきたという女性経営者の悔しさには共感するし、排除は不公平だと、当事者として思う。一方、裁判そのものにどこかモヤモヤするのは、そもそも「性風俗関連特殊営業」とはいったい何なのかという、素朴な疑問からだ。いったいなぜこの国は「性風俗関連特殊営業」という業種を、わざわざ設定しているのだろう。

 多くの方がご存じのように(ですよね?!)、日本は世界に類を見ない性産業大国でもある。その理由の一つが「性風俗関連特殊営業」を規定している「風営法」にある。「風営法」の歴史を簡単に説明すれば……1956年、超党派の女性議員らの尽力によって売春防止法(売防法)が成立した。ただ、求められていた買春者の処罰は実現せず、売る側だけに罰則が設けられるものになってしまった。一方、84年には風営法が大幅に改正され、男性器の膣挿入以外の行為が、各都道府県公安委員会に届け出ることで認められるようになった。売防法により「売春」(男性器の膣挿入という狭い定義)は禁止されているが、風営法により業者が自由に営業できるようになったのだ。そのため、口腔性交のみをうたう業種など、性産業が限りなく細分化されていき、世界に類を見ない方法で巨大な産業として発展しているのが日本の現実だ。風営法は売防法をさらに骨抜きにし、買春文化を無制限に広げてきた法律ともいえる。

 今回の裁判は、風俗業者に給付金が支払われないのは「法の下での平等を保障した憲法14条に違反するか否か」が問われた。判決では、「一時の性的好奇心を満たすような営業が、公の機関の公認の下に行われることは相当ではない」とし、「国庫からの支出で性風俗業者の事業継続を下支えすることは、大多数の国民が共有する性的道義観念に照らして相当ではない」とした。つまり、国は風俗業に目をつむっているだけで公的に認めてねぇからな、国民も認めてねぇからな、という話である。

 そこで、モヤモヤがはじまってしまうのである。

 そもそも風俗は、「一時の性的好奇心を満たすような営業」という定義で説明できるものなのだろうか。その定義が徹底的に「買う側視線」のみで、風俗で働く女性たちの視線が一切ないことに、胸が締めつけられる思いになる。

 近年、ソープランド、デリヘルといった性売買産業で働く女性たちから、日常的搾取や暴力に苦しむ声があがりはじめている。実際に、女性支援団体に助けを求める、性産業から逃げ出す女性たちが後を絶たない。そういう業種を「一時の性的好奇心を満たすような営業」として黙認し続けたつけを、女性たちがその人生で払わされている。

 そう、国も、そしてこの社会も、風俗を公的な空間から排除しながら黙認することで、そこで行われている暴力や貧困に目をつむってきたのだ。80年代からずっと、この国では、他の国にはないような変なサービスが手を替え品を替え、生まれては消えを繰り返し、性産業は持続され発展してきた。「妊婦専用風俗」や「出産直後の女性の乳が吸える風俗」とか、そんなサービスを思いつくような業界が、「こっちの水は甘いよ」と大きな口を開けて待っている。原宿など若者が多い街を歩けば「高収入アルバイト」の宣伝カーがにぎやかに音楽を鳴り散らかして走っている。「若ければ売れる」「若い女に価値がある」という圧を10代の女の子たちが内面化するような環境がつくられている。デリヘルの現場では、膣性交を禁止しながら、喉の奥の奥まで男性器を突っ込んだり、洗わない男性器をそのまま舐めさせたりするような性虐待が「オプション」としてサービスのように選べる。それが日本の今だ。

「風俗で働く人を差別するな」というのは当然の前提だが、性産業で働く人の中にも権力構造がある。妊娠や性感染症などのリスクを負い働く女性たちと、スカウトや経営者では立場が違う。労働問題や職業の平等という観点から性産業を捉えれば、「風俗を差別するな」というシンプルな闘いは正しいが、そういう観点“のみ”で風俗が語られるとき、こぼれ落ちるのは、性産業に巻き込まれ苦しんできた女性たちの声だということも忘れたくはない。今回の裁判は平等という観点からは不当だが(原告は控訴した)、女性の貧困や女性に対する性虐待を黙認してきた日本社会そのものの理屈、法の立て付けがゆがんでいる現実も突きつけるものだった。

 これを機に職業差別について語るだけでなく、そもそも「性を買う」文化そのものの問題性も、今後、私たちは問うていくべきなのかもしれない。はっきりしているのは、性を買うのは権利ではない、ということだ。その前提に立った議論が必要だ。